そろそろ一度更新を・・・(^^;
一月も 早18日・・・(しかも! あと少しで また日付が・・・)。
いつまでも「謹賀新年」がTOPじゃカッコ付かないので、そろそろ更新をば。
とは言え、次の記事は まだ準備中。さて、どうしたものか・・・。
そうだ、今 巷での「表現の自由」をめぐる議論は、フランスの風刺画が
発端だそうですね。
今宵はこれにちなんで、風刺関連のお話を一席、設けたいと思います。
―参考文献・サイト―
児玉幸多 監修 『少年少女日本の歴史 12 江戸幕府ひらく』 1986年 小学館
Wikipedia・狂歌 / Wikipedia・落書
「ペンは剣よりも強し」 と言う言葉があります。
言葉や文章も、使い方一つで 銃や爆弾と同等、あるいはそれ以上の威力、影響力を
発揮するかもしれません。風刺画のような絵だって、もちろんそう。
確かに、権力による規制は好ましいものではないけれど、自由なのだから何でもあり
・・・と言うのもいかがなものか???
何事にも “限度” はあるはず。表現の自由が認められているからこそ、ある程度の
自制は必要なんじゃないかなぁ。線引きが難しいと言う問題もありますが、それを
意識しているか、そうでないかだけでも 結果は随分と違ってくると思います。
「過ぎたるは 及ばざるが如し」 って言いますもの。ねぇ・・・。
別に脅しに屈して黙り込むワケではなく、言葉や表現を十分に吟味し、脅しの根拠に
なるような隙を与えないことも大事なのではないでしょうか。
さてさて、話は変って 最後にリンク関連のお知らせをば・・・。
大変残念ではありますが、閉鎖されたと思われる 「白樺の国の小さな家」 の
リンクを解除させていただきました。長い間ありがとうございました<(_ _)>
それでは、また次回! 今度の更新は、いったいいつになるのやら・・・(^^;
いつまでも「謹賀新年」がTOPじゃカッコ付かないので、そろそろ更新をば。
とは言え、次の記事は まだ準備中。さて、どうしたものか・・・。
そうだ、今 巷での「表現の自由」をめぐる議論は、フランスの風刺画が
発端だそうですね。
今宵はこれにちなんで、風刺関連のお話を一席、設けたいと思います。
★権力を笑え!? 粋でお洒落?な日本流 “風刺術” ♪
時は江戸時代初頭の1611年。徳川家康が京の二条城で、上洛した豊臣秀頼と
対面した後のこと。洛中でこんな落首(作者不明の、政治や世相などを風刺した
和歌)が聞かれるようになります。
「御所柿は ひとり熟して落ちにけり
木の下に居て 拾う秀頼」
関ヶ原の合戦に勝利して江戸に幕府を開き、すでに二代目の秀忠に将軍職を
ゆずっていたものの、当時家康は70歳を迎えていましたし、大坂城には秀吉の
遺児である秀頼が健在。この歌は・・・
「大御所(隠居した将軍の意で、家康を指す)は もう先が長くはないから、
そう遠くないうちに天下は秀頼(豊臣氏)の元へ戻るだろう」
・・・といった意味になります。それにしても、老齢の家康を “熟した柿” に例える
なんて、ナンと言うセンスの持ち主!!
この時 秀頼は19歳。その立派な成長ぶりに、家康は不安を覚えたとも伝えられて
いますから、思わず苦笑い・・・では済まなかったかも知れません。
だからと言って、家康が(処罰するために)歌の作者を探させたり、言論の弾圧の
ようなことを行ったと言うたぐいの話は伝わってはいません。
天下人たりうる人物の器の広さか、はたまた アウェイの民衆を敵に回すのは得策
ではないと言う計算からか・・・(もっとも、密かに探し出して闇に葬った・・・なんて
ことも、なかったとは言い切れませんけどね)。
それから 5年後の1616年、家康は 75歳でこの世を去ります。
二度にわたる大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川政権の基礎固めを終えてから。
例の落首の作者が存命ならば、「自分の読みは甘かったか・・・」 と、苦笑したかも。
この他にも、後醍醐天皇の建武の新政と、それに伴う世の乱れ、風潮などを批判した
「二条河原の落書」 から、狂歌、明治期に流行った「オッペケペー節」、歌では
ありませんが、戦時中のスローガンの一つ 「ぜいたくは 敵だ」 に“素” の一文字を
書き加える・・・みたいなものまで、痛烈な風刺の精神はしっかりと踏まえながらも、
実にユーモアやウイットに富んだ様々な表現が 現代にまで伝わっています(まあ、
そうでなくては何十年、何百年も残らないとも言えますが)。
粋や洒落を愛し、風流や遊び心を好んだ日本人の成せる業・・・なのかもしれません。
時は江戸時代初頭の1611年。徳川家康が京の二条城で、上洛した豊臣秀頼と
対面した後のこと。洛中でこんな落首(作者不明の、政治や世相などを風刺した
和歌)が聞かれるようになります。
「御所柿は ひとり熟して落ちにけり
木の下に居て 拾う秀頼」
関ヶ原の合戦に勝利して江戸に幕府を開き、すでに二代目の秀忠に将軍職を
ゆずっていたものの、当時家康は70歳を迎えていましたし、大坂城には秀吉の
遺児である秀頼が健在。この歌は・・・
「大御所(隠居した将軍の意で、家康を指す)は もう先が長くはないから、
そう遠くないうちに天下は秀頼(豊臣氏)の元へ戻るだろう」
・・・といった意味になります。それにしても、老齢の家康を “熟した柿” に例える
なんて、ナンと言うセンスの持ち主!!
この時 秀頼は19歳。その立派な成長ぶりに、家康は不安を覚えたとも伝えられて
いますから、思わず苦笑い・・・では済まなかったかも知れません。
だからと言って、家康が(処罰するために)歌の作者を探させたり、言論の弾圧の
ようなことを行ったと言うたぐいの話は伝わってはいません。
天下人たりうる人物の器の広さか、はたまた アウェイの民衆を敵に回すのは得策
ではないと言う計算からか・・・(もっとも、密かに探し出して闇に葬った・・・なんて
ことも、なかったとは言い切れませんけどね)。
それから 5年後の1616年、家康は 75歳でこの世を去ります。
二度にわたる大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川政権の基礎固めを終えてから。
例の落首の作者が存命ならば、「自分の読みは甘かったか・・・」 と、苦笑したかも。
この他にも、後醍醐天皇の建武の新政と、それに伴う世の乱れ、風潮などを批判した
「二条河原の落書」 から、狂歌、明治期に流行った「オッペケペー節」、歌では
ありませんが、戦時中のスローガンの一つ 「ぜいたくは 敵だ」 に“素” の一文字を
書き加える・・・みたいなものまで、痛烈な風刺の精神はしっかりと踏まえながらも、
実にユーモアやウイットに富んだ様々な表現が 現代にまで伝わっています(まあ、
そうでなくては何十年、何百年も残らないとも言えますが)。
粋や洒落を愛し、風流や遊び心を好んだ日本人の成せる業・・・なのかもしれません。
―参考文献・サイト―
児玉幸多 監修 『少年少女日本の歴史 12 江戸幕府ひらく』 1986年 小学館
Wikipedia・狂歌 / Wikipedia・落書
「ペンは剣よりも強し」 と言う言葉があります。
言葉や文章も、使い方一つで 銃や爆弾と同等、あるいはそれ以上の威力、影響力を
発揮するかもしれません。風刺画のような絵だって、もちろんそう。
確かに、権力による規制は好ましいものではないけれど、自由なのだから何でもあり
・・・と言うのもいかがなものか???
何事にも “限度” はあるはず。表現の自由が認められているからこそ、ある程度の
自制は必要なんじゃないかなぁ。線引きが難しいと言う問題もありますが、それを
意識しているか、そうでないかだけでも 結果は随分と違ってくると思います。
「過ぎたるは 及ばざるが如し」 って言いますもの。ねぇ・・・。
別に脅しに屈して黙り込むワケではなく、言葉や表現を十分に吟味し、脅しの根拠に
なるような隙を与えないことも大事なのではないでしょうか。
さてさて、話は変って 最後にリンク関連のお知らせをば・・・。
大変残念ではありますが、閉鎖されたと思われる 「白樺の国の小さな家」 の
リンクを解除させていただきました。長い間ありがとうございました<(_ _)>
それでは、また次回! 今度の更新は、いったいいつになるのやら・・・(^^;
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